あの日を境に

年末年始というのは不思議で、私は年の瀬生まれなので、1月1日に自分が切り替わるという感じはない。

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ということで、12月31日は大学に行き、帰りに神社をちら見して帰宅。元旦は起きてから調理をし、映画を観に行くという普通の休日を過ごした。元旦に、こんな1年にしていこうという意気込みをする必要があるのかとも思っていたが、パソコンに向かう気持ちにはならなかったので、2日になってしまった。

 

私はいつから、日常をこよなく愛する人になったのか。それはどう考えても3.11以降だし、もう少し手前のきっかけは、9.11だ。そういった外発的動機づけで、人生ががらりと変わっている。

私にとっては、12月31日や、1月1日よりも、3月11日や9月11日の方が、背筋がピンとするというか、区切りというか、そういうものだ。

 

 

1月1日が映画が安い日だったので、『君の名は。』を遅ればせながら観たのだけれど、何一つ心が動かなくて、それは自分でもびっくりするくらいだった。好きな人には申し訳ないという気持ちがある。アニメ慣れしていないこともあると思うけれど、一つには、災害の描き方が薄っぺらくって、そこがピンと来なかったのだろうと思う。アニメというのは「描かない」と「無い」世界だから、難しいんだなあと思った。運命的な出逢いというのを、はっきり経験したことがある私にとって、もっと再会のシーンに思い入れできるよう盛り上げてほしかったのだけれど。もしかしたら、小説で読めば私は面白く思えたのだろうか。

 

映画のストーリーに嵌まれなかった私は、まるで美しいPVを観ているような心持ちで、「あの日を境に」みたいなことを考えていた。

寧ろ、リアリティがあるのは、名前を忘れてしまうという設定かもしれない。実際、私たちは、大切な「境目」をどんどん忘れてしまう。では、忘れることは悪か、と言えば、私はそうでもないと思っている。忘れる技術を持っている人は、強い。

認知症の祖母のことや、田舎に親が住む友人のことや、なんだか、美しい映像を前にして、私の思考はゆらゆらしていた。もしかしたら、劇場に足を運ぶ人の中には、私のような観客もいたかもしれない。

 

ヒットというのは、もしかしたら、一つのものを観ていることではなく、一つのものに多くの意義を見出している現象なのかもと思い直してみる。

 

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君の名は。』より