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Progress

今日よりも明日はちょっと良い。

また新しい週が始まる。その前に、細かいことまで書けないが先週考えていたことを。

先日買った、ちょっと良いお茶を飲みながら。

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1. 新しいはたらきかたについて

既に『LIFE SHIFT』でも提案されていたが、仕事を分散して行う「ポートフォリオワーカー」に私は注目している。収入を分散投資することが重要ならば、収入源も分散させるとリスク回避できるというのが自明というのはわかってもらえるはず。フリーランス経験者は理解しやすいが、この辺、大きな組織に雇用されている人にはわかりにくいのかもしれない。しかし、『逃げ恥』でも取り上げられるように、家事も立派な労働時間なのであり、そういう意味では、金銭に換算するか否かは別として多くの人はポートフォリオワーカーである。これは、自分の人生を如何に主体的にCoordinateしていくかという観点から重要な考え方である。<与えるー与えられる>という関係を1つしか持たない場合、何かのバランスが崩れたときに、私たちは変更されたルールを飲むしかなくなる。関係を複数持っていれば、安全装置が働く。これを貯金で賄うという考えもあるかもしれないが、人生が長くなっていく場合、<持つ文化>に頼り過ぎるのは危険である。<持てる力>を持っておく必要がある。この意味で、複数の仕事を跨ぎながら、自身を俯瞰できる環境をデザインできる人は強いと思う。

こんな考えから先日企画したのが、今回のEduce Cafeだった。

harinezuminomori.net来場者が多くなかったこともあり、ワイン片手に、珍しく、自分が喋ってしまう会だった。しかし、もともとのコンセプトを考えればそれでよいのだ。私が聞きたい話をみんなで聞く、1人で聞くよりもずっと面白い時間になる、それがあの会の企画動機だったのだから。やらなきゃという気持ちは全く持たず、もう少し話してみたい!という人に出逢ったときに、すかさず依頼し、一歩踏み込んだ関係になるために活用している。

 

2. 参加が大事なんてまっとうなひとはもう知ってる

先日、日本における様々な分野で「参加」が語られて実践されてきた、というその歴史について書かれた新刊を読んだ。この本は、関係のある分野の人は一読すべきだと思う。何故ならば書かれていることを確認するためにだ。

 新しいと思うことは特になく、そうなんだよね、参加というのは大事だって、みんなもう知っているでしょうと思った。参加が大事というところまでは、20世紀だ。その上で私たちが考えるべきことは、何故、参加は阻まれるのか、参加とは本質的に何なのかということである。参加について考えるとき、 私たちは参加の持つ排他性や選択性に敏感である必要がある。また、参加にはグラディエーションがあることも重要だ。周辺的参加を参加だと大喜びしていても、結局、意思決定は別のところで行われているのだとしたら?頂点を1つに規定するヒエラルキーも、参加という概念の障害になっているし、この話はプロフェッショナリズムの再考とも重なってくる。

私はこのような考えの先に、アクティブラーニングにおける学習者参加型評価について考えている。教室の中で誰かが誰かを評価するという構造をどこまでフラットにできるか、考えているのだ。参加が大事、その先の話を、多くの方と議論して構想していきたい。

 

3.舞台とは、演出とは

『シブヤから遠くはなれて』というお芝居を見た。色が効果的に使われており、演出に目を奪われてしまった。正直、主演の俳優は声が通らず、少し残念だった。その翌日、とあるレストランで、帰ろうと思ったら次々に常連さんがやってきて、しまいには、近所の区役所で入籍してきましたという2人が現れ、見知らぬ2人を見知らぬ人とともに祝うというシュールな展開に巻き込まれた。私は、なんだかとっても、お芝居みたいだなと思いながらずっとその、時にすれ違い噛み合わない会話を面白おかしく聞いていた。私たちは、どんなときに現実的だと思い、どんな時にお芝居のようだと思うのだろう?実際の演劇は、わざとらしいデフォルメを通じて、私たちに現実のように見せかけてくる。一方で、現実は、まるで作り話のように私たちを驚かせ感動させる。きっと、この作用は反対向きみたいになっているので、現実を嘘っぽく、嘘を現実っぽく、みたいな表現をしていくと、面白いことができそうな気がする。実際、私がレストランで切り取った現実は、面白い部分だけなのだ。つまり、現実こそ、デフォルメされたものだとも言える。ますます、舞台と演出に関心を持ったので、来年はシナリオを複数買って、比較しながら読み込む時間をつくりたい。

 

4.結局、<私>は?

毎日毎日、様々なことをしており、それをすべて「研究している」と帰結させる気は私には毛頭ない。これは、先日、とある研究者が「寝ているときなどをのぞいて、自分の研究のことを『考えていない』時間は、僕にはありません。」と書いているのを見て、自分についてしばらく考えていたことだ。すべてが研究に通じているのではなく、全ては<私>から発せられたものであり、<私>に還るものである。そして、<私>が研究者であるのは<私>の一部にしか過ぎないのだ。<私>は、あなたが思っているよりずっとずっと多くの顔を持っている、のかもしれない。いや、そうでありたい。