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在りし日

今日は、つくった夕飯を食べる前にひっくり返してしまって。

食べようとしたものが食べられなかった。

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ふと、遠い日の記憶が蘇る。

私は自宅出産で、いつものように夕食をつくり、つくり終わったところで陣痛がきて、動けなくなって食べられなくなった。空腹で出産は力が出ないと助産師さんから言われていたのに、まあ、時はいつくるのかわからないもので。何をつくったか忘れちゃったけど、とにかく、食べないまま朝を迎え、出産した。

よく、出産のことを痛かったとか覚えている人がいるけれど、私は殆ど記憶がない。ただひたすら、生きていくんだという想いでいっぱいで、子供が生まれてから過ごした2年ほどの記憶がない。写真もあまりない。何かそういうことが、できる余裕はなかった。子供をひたすら連れてどこにでも行って、働いて、働いて。それから大学院に行って。

 

 

 

覆水盆に返らずとはよく言ったもので、離れてみてわかる、そこに在ったことの大切さ。在ることを当たり前だと思いこんでいた自分に対する嫌悪。後悔という言葉では説明しきれないもどかしさ。離れたくないと思っているわけではなくて、離れたからこそわかる意味を知ることも尊いと頭ではわかっていて。距離は人を大人にするはずで。

 

今、私は、いろんな人と毎日出会うし、話すし、刺激を受けていて楽しいのだけれど、それでは埋まらない、I miss you. があることを知っている。

 寂しいというのとは少し違う、ここにあなたが居ないことを心の底から知っています、というような気持ち。でも、それを相手に言ったとき、「申し訳ない」と言われたら私は少し困ってしまう。困らせたいわけではなかったから。

 

地震が今朝あって、ふと、大きな地震の日のことを思い出して、あのときも、また会えるよねと思っていた自分を酷く責めたんだったなと。離れているということはもう会えないということを覚悟することで、それも含めて、在りし日に、感謝しているんだと。

 

今日、いつもの百草サロンで、70くらいの女性2人と話していて、ちらっと、「再発していないって信じているもん」という呟きが聞こえちゃって。こんなに彼女らは喜々として学んでいるけれど、私の知らない時期に、きっと、とんでもなくいろんなことが詰まっていたに違いない。私は、彼女らに自分の子供のことも、家族のことも、恋のことも、何も何も話したことはなくて、いつも、研究者としてあるいは教育者として、他人として、関わっているけれど、時々、話したくなってしまう気持ちになることもある。でもそういうことが出来ないのが私。深入りしない、深入りされない、これがフィールドワーカーとしてのスタンスとして正しいと信じていたけれど、もしも今関わっているコミュニティの誰かが他界した時、私は、どんな風に感じるのだろうか。とか、そんなことも思った。

 

あなたと私。

離れたからできないことは沢山あるけれど、一緒に居るとできなかったことも沢山あったんだから、それを大事にしていこうと思っている。こんな風に自分の気持ちを書くことも、一緒にいるとなかなかやらないことだったりして。だから、やっぱり、離れている時は、書かなきゃいけないかなと思った。そっと手を伸ばす、そんな感じで。