なりたいものになれる。

ハロウィンです。

私は仮装していませんが、街中にはいろいろな服装の人がいました。王冠のようなカチューシャをしている女性が居て、あれは仮装なのかファッションなのか逡巡しましたが。

 

なりたいものになれる。

私はいつからそう思うようになったのか、考えていました。

 

その原点について考えるといつも思い出すのが『くまになったり、うさぎになったり:遊び体操』という本です。もう絶版のようで、私が読んでいた表紙のものはネット中古でみつけられませんでした。

くまになったり,うさぎになったり : あそび体操 (風濤社): 1974|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

 

先日、50代の女性に、「あなたは20代の頃、40になったらどんな女になりたいと思っていた?」と聞かれました。私は、何も考えていなかったと答えました。その人は、私に、「それじゃあ私みたいにはなれない。」と言いました。

そのやり取りの中でひっかかったものがなんとなく翌日までわからなかったのですが、私は「どんな女になりたいか?」という問いが自分に成立していなかったので反応できなかったのだと気づきました。

 

私は、自分を普段、良くも悪しくも、女だ!と思っていないのです。私は、女である前に、人です。女というのは、私の一つの趣味とか、一つの特徴のようなものに過ぎないという位置づけがあって、勿論嫌いではないし、否定もしないのですが、その程度のものなのです。

 

さらに、私は、今でも、「くまになったり、うさぎになったり」できるんだと思っています。すべては気の持ちようだし、方向性の問題だからです。

どんな風に生きたいかは考えるのですが、どんな人になりたいかという風には考えない。まして、どんな女になんて考えないわけです。屁理屈だと思うかもしれませんが、そこが全くわからなかったので、返事ができなかったんだなと思いました。

 

では、私がいつから、女であることを自分の持っているaccessoryの一つくらいにしか考えなくなったかというと、それは中学の頃だと思います。私は小学校を私立の女子校で育ったため、同年代すなわち小学生男子と話した経験が殆どありませんでした。共学の中学に進学して思ったのは、「世界には半数居ると聞いていた男というものは、本当にこんなに半分存在するんだ…」ということでした。(クラスが男女半々だったからです)

 

それから様々な男子学生と話していく中で気づいたのは、男子っていってもみんな違うぞ、という当たり前のことでした。せっかちで愚かな人もいれば、シャイで話しにくい人もいる。汗臭い人もいれば、花言葉を教えてくれる人もいる。男子って一括りにしてもなんにもわからないぞと思いました。様々な人と話す中で、自分が女子だということを意識することなく、友達になりたいと思うようになりました。

初潮を迎え、性別を意識しなければならないことは甚だ疎ましくはありましたが、それすら、ほくろが多いとか、背が低いとか、そういうこととの差分があまり感じられないまま過ごしていきました。

 

実際、お風呂に入って目を閉じて考え事をしているとき、私は自分の思考に集中するので、身体から解放されているような感覚です。書物をしているときも、芝居を見ているときも、私は女性であることとは無縁です。

 

私は男装しませんし、メイクもネイルも好きですが、それは私が快適だからしているだけです。大学時代は毎週1日決めてかなりマニッシュなスーツを着ていたし、紳士服を買ってサイズを直したり仕立て直して着ていた時期もあります。かっちりしたシャツやハードな素材に惚れ惚れしていた頃もありました。でも、結局、自分の身体を見て、自分に似合うかと考えたとき、それがしっくりこないように思った、好きなものを着ればいいというものでもないと知ったのです。このとき、少しだけ、なりたいものになれない気がしました。

しかしながら、だんだんと自分を観察する中で、自分が何を好きなのか、何を快だとするのか、探せるようになりました。そして、そうでないものを外していった先に、とても居心地の良いものを見つけました。それは、女性らしく生きることではなく、私らしく生きることでした。

 

なんとなく昔の広告を思い出しました。

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BEAMS  2011年ポスター】コピーライター, クリエイティブ・ディレクター:髙崎卓馬アート・ディレクター:石井 原デザイナー:藤大路季子