評価って難しいよね

昨日、困惑するメールをもらい、まあ、相当ストレスをためたわけですが、その質問の一つが「評価」に関するものだったというのが要因だったことはまああると思います。端的に言えば、「評価なんて難しい話、さらっとメールで教えてくださいって言うなよ・・・」って気持ち。

もらったメールだしいいよねってことで、こんな質問?でした。

★先生(=私)は、教育工学の評価におけるワークショップ の研究(※1)をされていますがコミュニティデザイン研究(※2)ワークショップデザイン研究で★先生はどう考えられているのでしょうか?

##大学で★先生の話を聞いた時コミュニティと教育 についてお話しをお聞きしました。

その後先日 ▲先生のセミナーを受講しまして教育工学研究入門の本を読んでおります


お返事いただければ幸いです。

 

はい。難しい質問文ですねー。もやもやします。なぜなら、私は「教育工学研究という文脈でワークショップ実践を評価するならばどういう考え方・やり方があるか」いう視点での論文は書きましたが、ご質問にある「教育工学の評価におけるワークショップ の研究」をやったわけではないからです。口頭説明したならまだしも、論文のタイトルなんだしちゃんと読んでほしい。

教育工学研究としてのワークショップ実践の評価に関する検討(<特集>情報化社会におけるインフォーマルラーニング)

 

※1 ちなみにワークショップ評価は、「プログラム評価」という考え方で捉えることができると私は考えています。プログラム評価研究の歴史はワークショップ評価研究よりも以前からありますし、知見に深みがあります。プロジェクト評価もプログラム評価を援用できると考えます。このあたりは、今日は特に言及しません。

※2 コミュニティ評価という言葉がありうるのかわかりませんが、ご質問にあった「コミュニティデザイン」の評価という意味では、「コミュニティデザイン」はプロジェクトと捉えることで検討できそうです。

 

でも、ずっと考えていて、別の点にもいらいらするのかちょっとわかってきました。皆さんが評価という言葉を使うとき、私は、いろいろ整理したくなることがあるのです。

 

Xの評価を考える上で大事なこととして

(1)Xの評価を考えるためには、Xは誰が何のために誰にどこで行ったものかということが重要。

(2)Xの評価を考えるためには、〈Xの評価〉は誰が何のために誰にどこで行うのかということが重要。

 

ということです。

有益な活動と実践主体が思ったとしても、評価者が「価値を評しない」という状況が起こりうる。これが評価に起きるアポリアです。ワークショップデザインを評価する、だって、コミュニティデザインを評価する、だって、(1)と(2)によって、あり方が違ってくるわけだし、逆に言えば、それをおさえて考えていきましょうということだと思います。結局、私に良いものが、あなたに良いかはわからない、というところを大事にしていかないと、評価について理解することはできないと思うのです。

 

その上で、斬新な活動をしている実践者は、その結果を未だ出せていないので、評価の軸に乗りにくいなあと思います。研究に関しては、実行可能性を見てくださるようなバジェットのスキームがあったり、先見の明を持っている先輩がいたりして、それでも石か玉かを誰かが判断し、育ててくださる世界観がある。だから私は研究者コミュニティが大好きなんですが、問題はそういうコミュニティではないところで、斬新すぎる活動をした場合です。

 

社会活動の実践では、わかりやすい活動目標とわかりやすいミッションを掲げているところが、クラウドファンディングでも勝利しやすいし、衆人の心を捉えやすいように思います。衆人の代弁者であるような表彰組織だと、このようなわかりやすいものが話題をさらっていくんだなとよく思います。

この「わかりやすさ」とは何かというと、枯れた思想、使い古された概念、誰でもわかる馴染みのある世界観の延長として理解しやすいものということだと思います。

社会変革をしたいという野望を持ったとして、それは斬新な革新的思想に根ざしている実践であることもありうると思うのにも関わらず、それらは評されにくく、結果として大きな予算獲得に至れず、そのコミュニティに居る若手は自信を失ったり、副業に励まなければならなかったり、人材を維持できなかったりする。

 

だから、研究者は「実践者を評価したいのではない」ということをもっと言っていくべきだと私は思っています。「実践」に備わる評すべき「価値」とは何か、そもそも、価値とは何かについて考えていくことが、私たち研究者の仕事の一つではないでしょうか。もちろん、研究者だけが考えることではないことはよくわかっているのですが、研究者コミュニティにある、新しいものを潰さないという文化は、可能性を有していると思うのです。

 

あるいは、実践者としては、時に戦略的に、旧来からのパラダイムとの接続を意識した、わかりやすい活動を軸にして、新しい概念の浸透まで、周囲を引き上げていくような心づもりが必要かもしれません。しかしながら、私はそういった根気がある方ではないので、そこは、力強い実践者の方々を応援していきたいという気持ちです。

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