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棲む森

どうして「はりねずみ」なんですか、という質問を今まで数えきれないほどされてきた。それは私が決めたことではなくて人がそう呼んだ(呼んできた)ことなので、私の中には理由はない。だから、応えるのが難しい。気分が向いてなおかつ時間がある場合のみ、その経緯を話す。

一方で、今も私が「はりねずみ」と名乗っていることには、多少なりとも意味があって、それは他人が決めたことを一旦解釈したうえで新しい意味を持たせ、そしてそれを愛しているからだと思う。

 

難しいことを考え始めると、手が止まってしまうようだ。私にとって難しいことというのは、自分以外とどのように関わるかということだ。そういうところも、「はりねずみ」なのだろう。野生のはりねずみは、基本、単独行動をするそうだ。森でお腹がいっぱいになるまで餌を探して歩き、出くわした相手と交尾をし、その後また去っていくと聞いた。非常によく理解できる。

 

そういうわけで、ここは「はりねずみのもり」で、はりねずみが何匹か歩きまわっている森である。ちなみに、はりねずみが何匹いるか、私は知らないし、はりねずみ以外のいきものも当然、森に居るだろう。恐らく、この森には沼があるのだが、それが西側にあることしかまだわからない。

 

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先日、明治大学の講義にゲストとして呼ばれる機会があり、スライドを用意していて考えた。私は「よく生きる」ということにとても興味がある。授業中に、つい、そういうことを口走ってしまった。「よく」とは「善く」とは違う「快く」生きるに近いと思う。

 

生まれてくるということを、誰も自分で決めることができない。気づいたら、生まれてきてしまっているわけで、その事実を受け止めることから、幼少期は始まる。これに自覚的であればあるほど、一旦は死を意識するのではないかと思う。ちなみに私がこれを考えたのは小学生のときだ。誰かの意志によって生み出されたということを諦めることから、本当の意味で、人生はスタートする。

 

息子に生きるということに意味があるのかと聞かれた際、意味なんて無い、意味は見つけていくものだと言った。これは本心で、もともと生まれた時に意味があるようには思えない。あるとすれば、それは産んだ方にあるのであって、生まれた方にはまだ無い。

 

生きるというのは、その、一旦、他人に預かられてしまっているところの<私>を<私>に復権することから始まるのではないかと考えている。つまり、<私>になっていく過程が、生きることではないかと思うのである。

 

さらに、<私>が拡張されていき、<私たち>も<私>だと思えるようになるのが「社会化」ではないかと思う。どこまでを<私>だと思えるかは人によって違う。想像力でもあるし、経験でもある。それらの一連の過程を、私は「学習」だと思っているのではないか。「快く生きる」ためには、当然、自分にとって「よい」とは何かを考えていかなければならない。それを評価するのは他者ではない。

 

私が誰かと共に生きる、ということを述べるとき、それに対して意識高いですね的な反応をされることがあるのだが、それは素直に受け止めきれない。なぜならば、私が他者と生きることを受け止めているのは所与だからであって、積極的理由はない。生まれてきたことが所与なのと同じくらい、他者がいることも所与である。だから、その条件に対して、前向きに取り組もうと思っているだけのことである。何も褒められた話ではない。それがそこにあるから考えるというだけなのだ。

 

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