学習観/教育観

こどもが電話で「なんだかわからないけれどつらいです」みたいなことを言ってきて、それに対して、取り敢えずそういう時は休むもんだと言った。ずっと天井を見ながらベッドに横になり、じっとしていると、いつか何かしたいことが出てくるのではないかと。もちろん、何日も浮かばないかもしれないけれど、それはそれじゃないかと。そんなことを言ったら、いつまでそうしているのかとこどもが言ってきて、さあ知らない、と言った。トンネルがどこまで続くのかなんて、誰にもわからない。しかし、動きたくないときに動いていいことはないと私は思っている。

 

そんな話を電話でした後、メールがきて「明日は一日何をして過ごせば良いですか?」とこどもが言う。それは大変難しい問題だ。学校というのは、「明日は一日何をして過ごせば良いですか?」ということを考えなくても良い装置みたいなところがあって、休むというのは本質的には自分で決めていく必要があることなので結構難しいことなのだ。

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実は大学生の時、実家が塾をやっていたのでアルバイトをしていたことがある。定かではないが大学1年の時だろうか。その頃はだいたい15時くらいに起きて16時から1時間、トレンディドラマの再放送を観てから出かけ、朝帰宅するという生活をしていて、当然ながら大学には行かず、塾講師が務まるような状態ではなかったのだけれど、一つだけ面白いと思っていたので続けていたことがあった。それは、中学2年生の個人指導だった。

 

確かその男子学生は、どの教科もほぼ2しか成績を持っていなくて、たまに1もあるみたいな感じで、私はそういう成績はとったことがないので、何をどうするとそうなるのかよくわからなかった。そういう学生がいるということで、全ての教科をみるというよりも、勉強する癖をつけるようなことを期待され、仕事が始まった。

初対面で、信じられないその覇気のなさに、途方に暮れる。そして私は彼に言った。

「君は人生で何をしている時が一番楽しい?」

「・・・・・」

「君が一日中熱中できることは何?」

「・・・・・」

次週までにそれを考えてくるように言って別れた。

 

翌週、彼がやってきて、同じことを聞くと、1日中はやらないけれどというエクスキューズつきで、ゲームだと言う。私はテレビゲームを殆どしたことがないので、その気持ちは全く理解できないのだが、じゃあ飽きるまでずっとそれをやったらいいと言った。次に会うまで1週間、やりたいだけみっちり、ゲームをしてきてほしいということを言った。

 

次に会ったとき、1週間どんな風に何をやったのかを聞いたような気がする。そして何故それがしたかったのか。まだそれはしたいのか。そんなことを聞いて行って、じゃあ、私とは何をしようかという話をした。私はコンピューターゲームはしないので、何ならできそうかということで、一緒にいろいろなゲームをすることにした。映画を観に行くとか、英語のガイドブックを読むとか、世界地図に行きたい場所を書き込むとか、そんなことを一緒にした。

何を教えたわけでもないけれど、何もしてこなかった彼の成績は上がっていって、最終的には3と4だけの成績になり、都立高校に行けることになった。高校に行けるのかわからない、行きたいのかわからないと言っていた中学生は、晴れて高校生になった。

高校進学が決まった際、その学生の母親にお菓子をもらって御礼を言われたのを覚えている。

 

しかし、これには後日談があって、高校受験で私は彼の伴走をしたが、高校に入った彼はまた勉強する意味を見失い、高校に通わなくなってしまったそうだ。そこまでは伝え聞いた。その後どうしたのか、私は知らない。彼は彼だし、私は私なので、あるひとときを偶然ともにしただけなのだ。結局、他人にできることってすごく少ない。あの時感じた手応えはなんだったのだろう、教育ってなんなんだろうと思った。この頃までは、親の塾ならびに会社の跡継ぎになればいいという周囲の意見があったのだけれど、私はこのことを境に、塾を手伝わなくなり、実家といよいよ距離を置くようになった。

 

こどもと話していると、自分の過去に向き合うことが必要なときがあって、たまにそれは辛い。親としての教育観より先に、個人レベルの学習論があり、そこから問題意識をもった研究者としての学習観があるので、どうしても学校教育や学校教員と折り合いがよくないような場合がある。

 

行きたくないなら学校は行かなくてもいい。行きたくなったら行けばいい。

この考えが根底にあるので、聞かれたらこの考えをベースにした意見が出てしまう。結果として両親から、「おまえはこどもに余計なことを言う」とお叱りを受けるのである。どうせ、叱られ続ける人生。

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