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記憶

父が認知症かもしれない。

そう思うことが増えた。昨年の冬頃からだろうか、約束や前言ったことをすっかり忘れており、言ったよと言うと激昂するということが度々あった。

母に、父が認知症かをチェックしてほしいとお願いした。あまりすぐにうんとは言ってもらえなかったのだが、あれこれ説得した。妻という立場から考えても、後期認知症を患う祖母の介護をしている経験値から考えても、母にチェックしてもらうのがいいのではないかと思った。初期なら、薬やトレーニングなど、様々な治療方法がある。

父は頭の良いひとである。頭の良い人が頭に病を持つということは、どれだけ辛いことだろう。いや、病むと当人は辛くないのだろうか。

 

先日、「記憶」というテーマでワークショップデザインをする課題を学生に出した。1つの班が、自分の生まれ年の文化というテーマで企画しようとして行き詰まっていたので、「あなたたちにその年の記憶ってあるの?」と聞いて、自分がティーンエイジャーだった頃の文化の方に促しをした。生まれた時のことなんて、何も自分では覚えていない、人から後で与えられたいくつかのエピソードに過ぎない。自分の記憶が自分のものとして成立するのは、もう少し先のことになる。

 

記憶というのは、人を人としてそこに立たせている何かみたいなところがある。私は、何かを忘れていくのが恐いので、日記めいたものを書いている。私にも、もう思い出せない過去がある。

 

ーー

ここまで書いてから、なんだかもやもやして眠れなくて、数時間考えていた。

私は、母に父の面倒をみてほしいとは思っていない。なぜなら、母は母だし父は父だからだ。でも、私は母に、父への「促し」をしてほしいと思った。いわば、猫の首に鈴をつけてほしいということだ。そして、それが自然なことだと考えた。

私は、この世界にある「べき」が嫌いなのに、彼女に「べき」を強いたのかもしれないと思って少し考えた。

 

私は「強いた」つもりは無い。しかし、彼女にはそれが、「強いられた」と感じることがあるかもしれない。

 

この手のことの難しさは、非対称であることなのだと、先日、教えてくれた人がいた。

「傷つけた」と「傷つけられた」。「愛した」と「愛された」。

「刺した」と「刺された」のように、外部から確認しにくいそれら抽象的概念は、人を迷わせ不安にさせ、すれ違わせる。

 

母も父も私を沢山愛してきたと言うのだけれど、私はそれを実感できていなくて、申し訳ないけれども、胸を張って愛されましたと言えない。だからこそ、私も、誰かを愛せているのかよくわからない。今まですれ違った人も含め、大事に想ったつもりでも、なにも届いていないかもしれないと思うし、そもそも、目の前にいる学生と、自分の子供と、大事に想う気持ちにどのくらいの差があるのか、把握できていない。

そもそも、誰かと誰かで、想う気持ちに差があるというのも、本質的には恐いのだが、実際にはそうなってしまう。

つまり、博愛なんて存在しない。

 

ーー

思い出せない過去の一つが、ふと思い出された。

 

友達100人できるかな」という歌詞の意味がわからない小学1年生の私は、年賀状を同級生全員120名に出し、返事が来た人を「友達」だと考えようと決めた。

年末、決めたことを履行すべく、せっせと年賀状を書き投函した。私立に通っていたので私達には住所の記載された名簿があった。きちんとした家の子というのは親が書けと言うのであろう、私のところには数十通の「お返事」がきた。

さて。

その後、私は考えた。

年賀状をもらった中に、一度も話したことの無い人がいる。

これは「友達」だろうか?と。

 

ーー

この世の中には、能動あるのみなんじゃないかと想う。

存在するのは、私はどうする、私はどう考える、だ。