とあるBookletのためにエッセイを書きました。
Amazonで流通するものではないので、blogにも載せておこうと思います。
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死ぬまで学ぶために
序
私と哲学対話について、そして<ラーニングフルエイジング>について触れるために、まずは、一つの詩を紹介したい。
老いてゆく中で
若さを保つことや善をなすことはやさしい すべての卑劣なことから遠ざかっていることも だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと それは学ばれなくてはならない
それができる人は老いてはいない 彼はなお明るく燃える炎の中に立ち その拳の力で世界の両極を曲げて 折り重ねることができる
死があそこに待っているのが見えるから 立ち止まっているのはよそう 私たちは死に向かって歩いて行こう 私たちは死を追い払おう
死は特定の場所にいるものではない 死はあらゆる小道に立っている 私たちが生を見捨てるやいなや 死は君の中にも私の中にも入り込む
ヘルマン・ヘッセ著 V・ミヒェルス編 岡田朝雄訳 『人は成熟するにつれて若くなる』より
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何故、人としてこの世に生を受けたか。私は明確な解を得られぬまま30有余年を過ごしてきた。ある時この詩に出会い、私は、如何に死ぬかを目的として生きていくのも悪く無いなと思うようになった。いい加減大人になったのだし、もう生まれたことではなくどう生きていくかを考えようと思った。
私達に必ず等しく訪れること、それは死である。よく生きることをよく死ぬこととして捉え直し、日々死と向き合いながら過ごそうと決めた。今から5年前のことだったと思う。
では、よく死ぬために、私には何ができるか。それを考えていった際、中学時代に読んだ、『第二の性』が思い出された。ボーヴォワールは言う、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と。ならば、「人は人として生まれるのではなく、人になるのではないか?」というのが、私の大きな問いである。そして、私が「人」になるためにできること、それは、考え続けることではないか。こうして私は、死ぬまで学び続ける、すなわち、<ラーニングフルエイジング>という研究コンセプトに至ったのである。
超高齢社会と<ラーニングフルエイジング>
現代日本は超高齢社会である。日本だけではなく全世界が、その人口構成において未踏の領域に踏み込んでいる。行政は増えていく高齢者をどのようなシステムで支えるかを検討している。医学においては、健康寿命を如何に長くするかという研究もトレンドだ。巷では、高齢者に対応したビジネスを考える人も多い。
私はこの3年、一人でいるより誰かといることが豊かさを生み出すエンジンになる、という信念のもと、学び溢れる「ラーニングフルな社会」を創るための実践と研究に取り組んできた。その取組の総称を、<ラーニングフルエイジング>プロジェクトと呼んでいる(URL:http://learningful-ageing.jp/)。このプロジェクトでは、個人の加齢や社会の高齢化といった、「エイジング」に関する諸問題を、生涯学習の課題として捉え、研究・実践を行うことを目的としている。
学びつづけるという生き方は、Hard-Fun(苦楽しさ)を伴う。日々成長し続けることは決して容易くはないが充実感があり、これが幸せという感覚につながると私は思っている。身体の健康は心の健康からというような話もある。心身の健康のためにも、自分は昨日の自分より輝いているという実感は有効なのではないかと思う。
<自分事>としての「問い」
超高齢社会は、そもそも誰にとってのどのような「問題」なのだろうか。それぞれの研究や実践が蛸壺化している中で、自分にとって関係があることとして考えてみようと思うきっかけがあった。冒頭で述べたように、私の研究は「私」の「問い」から始まっている。つまり、このプロジェクトは、<自分事>なのだ。
翻って、<他人事>が<自分事>に切り替わるターニングポイントというのはどこにあるのだろう。私はこの転換に「哲学対話」が有効だと考えている。人は話すときと同じくらい聴くときにも学ぶ。哲学対話は、話すことと聴くこと、両方を鍛える。そればかりではなく、小集団で対話を繰り返す中で、他人の<自分事>を聴くという経験そのものが<自分事>になる、というようなプロセスがあるように思う。
現在、私が実施している哲学対話実践の一つに、日野市百草ふれあいサロンでの「みんなで哲学」がある。この活動は、東京大学UTCPの梶谷真司さん、NPO法人こども哲学おとな哲学アーダコーダの井尻貴子さん、東京大学大学院学際情報学府の宮田舞さんにファシリテーターとなっていただき、2015年2月から月1程度で行ってきた。参加者は高齢の方が多いが、大学生にも声をかけ、多世代での対話を目指している。2015年10月と11月には、「教育学Ⅱ」という授業の受講生も参加しての実施を行った。この活動を通じて、多世代共創社会における哲学対話の可能性を痛感している。
世界と対峙するために
一方、本務校では、初年次教育や調査法の授業でクリティカルシンキングを教えることがある。その中で、私は、素朴な「問い」が立てられない学生が多いことに驚かされた。「特に疑問を感じることはないです」とやり過ごそうとする彼らと向き合い、日常生活で何か感じた疑問・気になることを、何でもいいから書き出して「問い」の形にしていくワークを繰り返す。大学生は必死で紙に書き出そうとする、しかしなかなか紙が埋まらない。ところが、哲学対話で他者と共にコミュニティボールを投げ続けると、自然と他者への疑問が投げかけられ対話が生まれ、眼前の事象を当たり前として受容しない素地ができてくる。対話を通じた学びのプロセスには目を見張るばかりだ。
先日は、大学生と絵本を使った哲学対話を行った。『狼と七匹の子やぎ』を題材に、私がまず音読し、その後、どのようなストーリーかをまとめた後、疑問点を出していく。この実践を行った背景には、パリでのテロがある。
私はかつてパリに足繁く通った経験があり、パリの哲学カフェにも参加したことがある。慣れ親しんだパリで起きた凄惨な事件は、私を空っぽにしてしまうほど衝撃的なものであったが、一方で、テロが起きたらシリアを爆撃するというのは、不幸の連鎖としか思えなかった。私は、この絵本を通じて学生と共に考えたかった。それは例えばこんなことだ。
—何故、狼が悪巧みをしていると感づいていながら粉屋は狼に協力したのか。
—何故、母やぎは狼の腹に石を詰めたのか。
—何故、やぎたちは狼が井戸に落ちて死んだとき井戸の周りで踊ったのか。
私は教育とも研究とも区別がつかないような対話をしながら、世界と対峙する方法を探している。死ぬまでそのような生き方ができればと思っている。
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森玲奈(もりれいな)・プロフィール
学び続ける人とそれを包み込む社会に関心を持ち、ワークショップ・カフェイベント・PBLの研究を中心に、生涯学習に関する研究と実践を続けている。