かしこまる

これまで、人生の中で、「かしこ(畏)まりました」という表現を使ったことがあるという記憶がない。なんでかなと考えてみた。多分、私が、何人にも特にかしこまっていないからである。

こういうことを書くと不遜と思われるのだろうか。でも、畏まるというのは相当な敬語表現だ。類語の中で、最高グレードだ。「畏(い)」は、辞書を見ると第一義「おじけづく。おびえる。」となっている。そんな最高グレードかつどきどきするような単語を使わなければならないシーンってなんだろう。。。どんな関係なんだ。。。

私は、他者に対して、敬意よりも好意を表現する方が好きだ。

 

日本語の古語を勉強すると、敬語がもっともっと複雑だった社会を知ることができる。そしてそれがシンプルになってきて今があるのだと思う。謙譲語と尊敬語があるというふうに学校で習うと思うが、実際には、言葉にはさらにグレードがあり、それが与えてしまう印象というのは否めない。面白いけれど難しい。

 

振る舞い方と言葉とは、あまりずれていない方が良いのではないか。とってつけたような感じになるから。現代の世の中で、誰かが誰かに、そんなに畏まる必要あるんだろうか。私はそれを思いつかない。勿論、私に対して何かを畏まられるのも微妙である。

 

たとえ仕事をしていたとしても、「かしこまりました」と言われるのは。寧ろ私の接し方にそれを強いる何か、そういう問題があるのだろうかと考えてしまう。さらに混乱するのが、「かしこまりました!」「かしこまりました(笑)」である。これは、新しい用法で、ギャップを生んで面白くする表現だろう。敬意は払っているように見せても別にそういうんじゃないよ、という意味合いだろうか。解釈が難しい。

 

敬意というのは最高表現にしておけば失礼がないというのが一般的な考え方なのだろうか。通常の態度やその表現の他にある発言内容と、そこで使用される敬語のクラス感が違うと、なんだか変な感じがするのは私だけだろうか。

 

※ちょっと、拗ねているだけである。