夢とお金はどこまで共有できるのか

近頃、「社会貢献している感覚を買う」という行為があるんだろうなあと思った。

※以前からパトロネージ文化というのはあったと思うが、それが昨今ではコンビニエンスな感じで普及したという印象を持っている。

 

あくまでも、その本当っぽさから来る満足感は行為の中で消費され、急速に進み、ともすれば競り合い、多くのものは(全てではない)色褪せていくのだろう。

 

クラウドファンディングに興味がある。ただ、虚しさも覚えているのも事実。コミュニティが形成できる、投資者同士が連携し夢を叶える、そんなことは、あるのだろうか、という夢物語について考えている。結局のところ、投資した金額の序列があるので、たくさん払った人が、クライアントとして優遇されるはずで、そこはフラットな寄付者になどなれない。だったら、いっぱいの人が資金提供するところで出すと、全体の一人になってしまい、階層化するから、クラウドは消費社会の権化みたいだなあと思った。理解が甘いだろうか。

 

共有と協同という誘惑に抗いがたいのが、社会を構成してきたという人間の性なのかもしれないなあ。ぞくぞくするような話だ。他人事ではない。

 

やっぱり、お金がないと何もできないのは確かである。喪黒福造を思い出してしまう。結局は、消費の対象が変わってきただけなのかな。