「ひらく」ためのデザイン

ある人からちょっとした質問を受けた。そのリプライとして書いたものを ベースに、ブログにも残しておこうと思う。

 

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知をひらく(開く・拓く)必要のない学問はないと思っている。

なぜなら、後身がいない学問は死滅するからである。もしかしてそれを一緒にやってくれるかもしれない「誰か」のために、全ての学問はひらかれざるをえない。それは私たちが、「人」として生きているということに、本質的には結びついていると思う。

 

※ここで言う「知を『ひらく』」というのは、大学等で行われている研究に関し、その研究に携わっていない人への情報伝達一般を指している。現在なら、研究者が論文・書籍の執筆や研究会でプレゼンテーションすることの他、教育活動や広報活動も含んでいる。

 

「ひらく」と言ってもその具体的な方法は様々だろう。例えば、研究成果の公開という場合もあるだろう。もう少し踏み込んで有用性について考える領域もあると思う。研究領域の特性によるところが大きいということは承知した上で、少し引いた視点で捉えてみたい。

 

私は、先日とあるシンポジウムにゲストとして参加してきた。そこで一番印象に残ったことは、話された内容よりもゲスト達の表情だった。

研究者は自分の選択したテーマに対して強い好奇心を持っている。自分の研究について語る研究者は、それぞれの口調、それぞれの流儀があるように見えた。しかし、共通していたのは楽しそうに話すことだった。

 

そういえば、自分の研究について苦しそうに話す人をあまり知らない。勿論、進めて行く過程には苦難もあっただろう。でも、それを話すとき、彼・彼女らは総じて、幸せな人という体をなしているように思う。

 

探究したいことを見つけた人とはこんなにも幸せそうな身体を持つのか。

そして私もまた、探究したいことを見つけてしまった、幸せな人である。

 

幸せな研究者にとって、自分の学問を誰かに伝える方法は複数あっても良いのではないか。なぜなら私たちが考えていることは、まだできていないこと、まだ見えない世界だからである。探究したいことのほんの僅かな部分しか、文字にも数式にも表現できていない。漠として蠱惑的な探究対象に対して、どのように可視化し表現し伝達することが可能なのだろう。

 

「わからない/わかる」が渦のようになって迫ってくるのが、探究活動だと思っている。このような動的活動について表現する際、「デザイン」は有効なフレームワークの一つとして機能するのではないか。ここで言う「デザイン」は、プロダクトデザイン等、狭義のデザインではない。

 

曖昧なものを曖昧なまま魅せることができる表象表現が、もっと、大学と近くにあるべきだと考えている。

 

これが、「知を広くひらく必要はあるのか」に対する、私の直観的なコメントである。