「憧れ」という最近接発達領域

学習理論に、最近接発達領域(Zone of Proximal Development)というものがある。これはヴィゴツキーという人が提唱したもので、他者との関係において、あることができるという行為の水準ないしは領域、を指す。

 

例えば、ひとりではできないことが、誰かと一緒にだったらできる

そういうようなことをイメージしてもらえると良いと思う。協調学習やワークショップなど、学習という営みを個人の中に閉じず社会の中の営みだと捉える社会的構成主義という文脈で紹介されることが多い。

 

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今日、専修大学質的調査法という講義をしていて、その中でカフェ研究家である飯田美樹さんと、研究室の後輩でワークショップの実践・研究をしているゆうきあんざいさんにインタビューをしたのだけれど。

その際、インタビュー前に書いてもらった、「カフェと私との関わりに関する年表」がちょっと面白かった。

 

飯田美樹さんのカフェ初体験は小学生の頃、美術館のカフェに連れられて行ったことだそうだ。その時、彼女はカフェに対して憧れのようなものを抱き、高校時代はお昼ご飯の500円をカフェに遣うようになったとのことである。その後、彼女はカフェの研究を始め、本を書くことになる。

 

一方、ゆうきあんざいさんのカフェ経験も小学生時代から始まる。中学受験の塾に通う中で、ドトールで勉強をすることを続けていたのだそうだ。自習室でもなく、漫画やテレビのある家でもなく。何故カフェで勉強をしていたのか?というさらなる質問に対し、彼は、そこにいると大人になったような背伸びした感覚があったのではないかと語っていた。

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これを聞いていて、私もカフェへの原風景が似通っていたことに気づかされた。

私は母が原稿を書くために仕事場としてカフェを使っていたので、それによく付き合っていた。また、母との待ち合わせはいつも、ちょっと洒落た目白にあるカフェだった。出窓でケーキを焼いている、静かなマスターとその妹でやっている店だ。

 

私はそこに居ても許される小学生であるために、そこでの過ごし方を学んでいったのだと思う。カフェにランドセルを背負ってやってきて、セーラー服のままでケーキを食べていると、よく、いろんな大人が話しかけてくれた。大抵は、何を読んでいるの?と本の話をしてくる。だから私は、毎日沢山の本を読んでいた。そして、自分の読んでいる本のことを人に話すのが楽しかったのだ。「今日はカフェで待ってなさい」と言われると嬉しかったなあ。

自分で友達とカフェ巡りをするようになったのは中学1年だった。銀座のカフェによく行ったなあ、その後は自由が丘とか青山とかだったなあ。

 

そんなことを思い出しながら、今夜は少し、一人でぼんやりした。

 

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憧れの空間、憧れの人は、子どもを成長させる。

カフェとは、子どもの頃の私にとって、憧れの空間だった。

そこには、憧れの人がいた。憧れの人と接することのできる空間だった。

そう、あれこそ、「憧れ」という最近接発達領域ではなかったのか。

 

ちょっと敷居の高い、ちょっと踏み込みにくい、でも背伸びしたら何かが見つかりそうなものに対して、背伸びをする感じ。そういう場所が、いつのまにか自分の居場所として「日常」になっているのだから、不思議なものである。

 

きっと、子どもがカフェで哲学者の話を聴いたり、隣の人と新聞を読みながら議論したりしたら、このくすぐったい感覚を味わうのだろうな、と思った。

 そんなワークショップを、カフェというイメージを使って、してみたい。

 

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追記:このイメージはまさに、ソーシャルラーニングの世界観だなあ、と思った。飯田さんが昨日、Facebookはカフェに似ていると言っていたこと、ぴんと来る。