協働という夢を見る

“「学びってものはコラボレーションしながらやるものなんだよ。いいからコラボレーションしなさい。」というのはプログラム設計者側の理屈であり、学習者側にとってはそれを押し付けられてもわざわざ協力する必然性にはなりません。”

ゆうきあんざいブログ 人はなぜコラボレーションするのか より)

 

私が単にとてもひねくれものなだけかもしれませんが、私は「協働しなさい」と言われて、「そうね」と動けるような人ではありません。

なんでも協働できればその方がいいのかもしれませんが、協働するためにはコミュニケーションが必要であり私はとてもそれが大変なことだって思っているので、よほどのことでないと、そうかあ協働するぞとは思わないのです。

でも、必然が感じられれば話は別です。大きくて新しい問題に向き合うとき、私は必ず人と一緒に考えたいと思います。だんだん大人になっていくにつれ、そういう機会も増えました。

 

大きくて新しい問題を人と一緒に考え、そして何かものづくりをしたという経験、その知的興奮を味わうと、相当な労力をかけても協働という夢を見ていたいと思うのです。(私は、研究活動というのは大きな問題に向かう協働の夢だと思っています。)

 

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そうそう。

これが「ワークショップ」と「(従来の)授業」との、ドラスティックな違いなんだと思うのです。ワークショップでは、学習に良いことであっても、そのやり方を押しつけない。方法を企画者が参加者に押しつけたら、それは、<教える→教わる>という単線の教授モデルです。

ワークショップの参加は、参加者の任意です。だからそこで何かのルールを提示するということは大変シビアなことです。故に、納得して参加者が企画者の提示した方法に乗れること、その必然を感じ、そのコンテクストに入れることが重要になります。ルールは詳細すぎても難しいし、アバウト過ぎても理解できない。ワークショップデザインにおける諸処の設定は、その意味レベルにおいてミニマムで、シンプルで、寛容である必要があると思います。

これは大人向けのワークショップに限って言えることではありません。子ども向けのワークショップを見に行っても、ペアワークやグループワークを自然と受け容れられるようなコンテクストが、その活動の根幹に設定されていることに気がつきます。

参加者がその設定やルールに対し、全てにおいて共感できなくてもいいのです。(いっちょその方法に乗っかってみるかな面白そうだし、、、)と思えるような、そんな設定を用意すること。それがワークショップデザインにはとても重要だと思います。

 

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あなたと見たい夢がある。だから、私は、船を漕ぐ。